Previous Page - Page 27 - Next Page [ 目次]

七章 社会の中の進化論

1―進化的倫理をめぐって

教育委員会の犯した自然主義的誤謬
 以前、巣から落ちたハトの雛が幸運にも優しい人に助けられ鳥かごで育てられていたところその雛の親がやってきてかごの外から給餌しようとする光景が、新聞で紹介された。それを呼んだ教育委員会の人が、小学校の教材で使いたいと申し出たという。細かな点は違っているかもしれないが、おおよそこのような話が新聞に載ったことを覚えている。
 この教育委員会の人は、母親が子どもを見捨てずにカゴの外からでも給餌する、という行動から、母親の愛情というものを小学生たちに教えようとしたのだろうか。だとすると彼は、動物についての観察事実から、人間がどう行動すべきかという価値観や道徳的規範を引き出しているといえよう。
 こんな例もある。小学校では、新学習指導要領の施行にともなって、低学年の理科と社会は生活科という科目に変わる。その生活科で、一列になって歩いているアリのビデオをみせて、「道路を歩くときはよそ見をしないで、二列くらいで歩いた方がいい」という答えを導き出させる実験授業が行われた。この例だけでなく、生活科の授業では、動物の行動に人間の感情的な解釈を勝手にあてはめて、子どもに一種の道徳教育を行おうとする試みがなされているのである。
 しかし動物には、子どもを殺したり子育てを放棄したりする行動が、ごく普通にみられる。そのような行動に対しては、教育者はどう対応するのだろうか。おそらく彼らは、子殺しなどの行動は特殊な例外であると説明するか、そういう事実はなるべく子どもに知らせないかの、どちらかであろう。しかし前者の場合だと、それは子どもにウソを教えることになるし、後者の場合だと、子どもがこの事実を知ったとき、(人間においても)子殺しなどの行為は自然であると思ってしまうか、あるいは教育者の説明が矛盾しているように感じ、とまどってしまうかもしれない。
 この例とは逆に、仮に動物の行動が人間からみて倫理的と思えるものばかりであったとしても、その行動と倫理的価値観を結びつけることは誤りである。
 このように、生物学上の事実や解釈をもとに人間の倫理観や道徳的価値観を導き出そうとすることを、「自然主義的誤謬」という。
 特に進化的概念や事実から導き出した倫理やモラルの規範を、進化論的倫理(エボリューショナリー・エシックス)という。本章ではこの進化論的倫理に関わる問題と、人間の倫理が進化的も説明できるかどうかの問題について考えてみよう。

社会ダーウィニズムとは社会ラマルキズムである
 進化論が広まる以前は、キリスト教が生命観や生物の起源を説明し、人々にモラルや倫理観を提供していた。しかし、進化論の登場によってそれらが誤りだということになると、キリスト教のかわりに進化論に倫理やモラルを見つけようとする人が現れたとしてもおかしくない。
 ダーウィン進化論はしばしば「生存競争」という言葉で語られたため、多くの誤解を生むことになった。また、自然選択による適応進化という現象は、「適したものが生き残る」あるいは「最適者生存」などという言葉で理解されたために、資本主義社会の容赦ない競争を正当化するのに使われた面があるようだ。
 十九世紀後半、自然選択の概念を適用して競争社会を正当化した中心人物として、イギリスの哲学者スペンサーがいる。彼は自然主義的誤謬を犯した筆頭ともいえよう。このスペンサーらが自分たちの思想に自然選択の概念を用いたことから、そうした思想を「社会ダーウィニズム」と呼ぶようになったのである。実際には社会ダーウィニズムと呼ばれるものの形態はいろいろで、正確に定義するのは難しいが、大まかにいえば、キリスト教的倫理観にかわる論拠として自然科学的進化思想の中からつくり出されていく社会的思想である、と考えられよう。
 この社会ダーウィニズムと呼ばれる思想をよくみると、実際には進化とか自然選択説とはほとんど関係がないことがわかる。たとえば社会ダーウィニズムでは、進化は前進、進歩、あるいは「下等」から「高等」への変化とみなされるが、これは実はラマルキズムの発想である。実際、スペンサーはラマルキズムを高く評価し、獲得形質の遺伝の重要性を評価していたという。つまり、ダーウィンは、生物の種が分岐的に変化し、各生物がそれぞれ独自に環境に適応していくのが進化であると考えたのに対し、ラマルクは、下等から高等へと前進することを進化と考えていたので、「社会の進歩のために」進化論的倫理を用いるうえでは、ラマルキズムの方が有用だったのであろう。このような事情からイギリスの科学史家ボウラーは、『進化思想の歴史』(一九八四年)の中で「スペンサーの社会ダーウィニズムはむしろ社会ラマルキズムといえる」と指摘している。
 十九世紀の終わりにスペンサーの思想が衰えると、国家間の闘争や人種間の闘争というナショナリズムに、「最適者生存」という言葉が使われるようになる。強い国家が弱い国を支配するとか、優秀な人種が他の人種を圧倒する、といった思想が主張されたのである。そこでは個人の競争という概念はなくなり、個人は国に奉仕するものとみなされ、進化理論としての自然選択説とは完全に異質なものになってしまった。
 このような社会ダーウィニズムの主張者として有名なのが、十九世紀後半のドイツの動物学者ヘッケルである。ヘッケルは、人間社会には国家間の競争が重要で、それによって強力な国家をつくることができると信じていたという。彼もまた、一般にはダーウィニストとみなされているにもかかわらず、「進化は内的発達や進歩」であるとするラマルキズムに近い考えの持ち主であった。

優生学と「遺伝管理社会」の将来
 ダーウィンの従兄弟であるゴルトンは、十九世紀後半、国が適者と不適者の比率を調節しなければ民族の退化の恐れがあると論じ、「優生学」と呼ばれる思想をつくりあげた。つまり、人為淘汰によって民族の前進進化を推進しようと提唱したのである。
 この思想を積極的に利用したのが、ナチス政権下のドイツである。前述のヘッケルの思想もまた、ドイツにおける社会ダーウィニズムの流行を助長した。そうした動きは人種主義の傾向を強め、ナチズムの台頭とともに、優生学的な政策が取り入れられることになった。ナチズムがドイツ人の優越性を主張しユダヤ人差別を正当化するのに、優生学を利用したのは有名な話である(この問題については米本昌平『遺伝管理社会』―弘文堂―に詳しい)。
 現在、優生学は医療管理政策として、現代社会の中に新たな問題を投げかけている。というのも、DNAや遺伝子を直接調べることによる病気の診断が、可能になってきているからである。
 そうした診断によって、これまで不可能だった治療が可能になる病気については、問題はあまりないかもしれない。しかし、将来発病の可能性がある病気や、少なくとも何年かは生存の可能性のある病気を診断して本人に伝えることは、ただ苦痛を与えるだけであったり、病気をもっている人への差別につながるという問題を生じる。米本が指摘するように、法律による強制的な検診は個人の権利を侵す危険性を孕み、我々は今後ますます、「病気になる権利」を主張しなければならなくなるかもしれない。

「進化遺伝学的世界観」
 この見出しは、木村資生の『生物進化を考える』(岩波新書)の第九章のものである。木村は以前から、集団遺伝学的に考えた優生学的な発想が人類の未来を考えるうえで必要である、という考えを述べてきた。『生物進化を考える』には、以前に比べて表現はマイルドになったものの、木村の優生学に対する考えがよく表されている。
 人間に起こる突然変異の多くは、他の生物と同様に有害である。しかし医学の進歩により、これまで有害であった突然変異遺伝子をもった人も、生存し子どもを残すことができるようになる。その結果、有害な突然変異は中立なものとして、人類の集団の中に蓄積されていくだろう。そのような突然変異の蓄積は、人間のもつ遺伝的な情報を退化させることになり、その結果、人類の退化を引き起こすかもしれない。そこで木村は、「何万年も先の長期的な話になるかもしれないが、人類が知能や労力や物的な資源の大部分を、いろいろな表現型対策[著者注:病気の治療など]に使うかわりに、より建設的、発展的な事業に使うためにはどうしても優生的な措置が必要だと思われる」とし、その対策として「現実に有効なのは、平均より多くの有害遺伝子をもった人が、何らかの形で子どもの数を制限するか、あるいは有害突然変異をもっていることがわかっている受精卵を、発育の初期に除去するかのどちらかになると思われる」と述べている。
 上で述べたのは、有害遺伝子を除く「消極的優生」といわれるものだが、人類にとって好ましいと考えられる形質の増加を目指す「積極的優生」についても木村は言及している。木村は「以下に紹介する積極的優生の手段[著者注:精子銀行とクローン人間を指す]は共に提唱と同時に多くの人たちから激しい反対や批判を受けたもので、筆者も全面的に賛成しているわけでは決してない」としながらも、「何千年、何万年、またそれ以上の長期的な人類の未来を考えようとすると、これらの優生手段は十分考慮に値するものであると信じる」「一般的知能とか健康、社会的協調性といった形質の遺伝的改善を行う上で、科学的にはおそらくもっとも安全・確実で、長期的にも有効な方法といえるかもしれない」と主張しているのである。

木村「優生」論をどう考えるか
 前述の木村の主張を考えるうえで重要なのは、木村のいうように、有害遺伝子が将来的に蓄積されていくということは現実に起こりうる可能性がある点である。しかし木村の文章を読むと、彼の考える「人権」とか「人類の発展」とは、「健康で優秀な人間になること」のみのように受け取れる。そこには、「病気でも生きる権利」とか「障害者が健常者と同じように生きる権利」といった、個人の権利という思想が欠如しているように思える。木村の進化観には、進化とは発展するものである、という前進的な意味合いが含まれているのではないだろうか。
 木村は、自分が述べるような優生学には「反対意見がある」とし、自分も、「全面的に賛成しているわけではない」と保留しながらも、それらの内容については紹介していない。たとえば、子どもの数を制限するとか受精卵を初期に除去するということが、どのような問題を引き起こすかについては、まったくふれていない。また、知能とか社会的協調性の遺伝的改善ということが、どれだけ危険な発想であるかについても説明されていない。そのため、こうした遺伝的改善が、読者によっては好ましい方法のように受け取られることもあるかもしれない。また、優生学の孕む問題を理解していない人によって、悪用される危険性もあるかもしれない。
 地方新聞の中では極端に右傾化しているといわれる静岡新聞(『ザ・新聞 別冊宝島72』JICC出版局を参照)などは、木村のこの著書をとりあげ、「人類の”優生”を維持するためには優生学的発想が必要だと語る。……集団遺伝学者としての信念を文明病の対策にも貫く、日本人としては珍しいストレートな姿勢は科学主義的なその立場に異論をもつ人からも評価させるだろう」と一方的に絶賛しているのである。
 有害遺伝子がどのように蓄積されていくかを予測したり、将来的に有害遺伝子を減らすための方法についての科学的な論議自体は、批判されるべきものではないかもしれない。しかし、そういった科学的論議と人間社会にどのように適用すべきかという論議は、別に取り扱うべきものであろう。このような観点でみたとき、木村は少なくとも「消極的優生」の適用については肯定的に述べているし、「積極的優生」についても人間の「形質の遺伝的改善」という社会的な判断を含めており、中立な科学的論議であるとはいえない。
 木村の中立説や集団遺伝学への貢献は、学問的な面では高く評価されるべきものである。ただ、日本では権威的なものとなった論説に対しては、不適切な面があっても批判しなくなるような風潮がある。実際に、『生物進化を考える』の書評の多くは、木村優生論について批判していない。もし、この「優生論」が、この種の問題を論議することがタブー視されている現状に対して、一種の問題提起として出されたのであれば、それに対する自由な批判が出されなければ、「問題提起の章」として意味がまったくなくなってしまうだろう。

人間社会生物学は疑似科学か?
 社会ラマルキズム、社会ダーウィニズムは、実は進化理論とは直接にはあまり関係していなかったというものの、進化思想から倫理的価値観を導きだそうと試み、自然主義的誤謬を犯していた。では、人間の行動やモラルの一部が生物学的にどのように進化してきたのかを説明すること、それもまた誤りなのだろうか。
 最近、社会ダーウィニズムの現代版といわれ批判されているのが、人間社会生物学である。前章でも述べたように、社会生物学は、動物社会行動の進化を研究する分野である。
 動物行動学の研究が進むにつれ、これまで異常とみなされていたような行動、たとえば子殺し、兄弟殺し、レイプなどが、自然選択によって進化した行動として説明できるようになった。さらに、自分を犠牲にしても他人を助けるという利他行動や協力的な行動も、遺伝子の有利性や個体の有利性に働く自然選択によって進化したもの、と考えられるようになった。
 このような傾向の中で特に問題となったのが、アメリカの昆虫学者ウィルソンが一九七五年に『社会生物学』という大著の最後の章で、人間の行動も自然選択で説明しようとした試みである。
 アメリカではそれに刺激され、「行動学と社会生物学」という科学雑誌が発行され、人間行動の進化的な側面についての研究が進められ、「人間社会生物学」と呼ばれている。しかし人間の利他行動や社会行動までもを自然選択で説明しようとするウィルソンらの試みは、アメリカでは左派といわれる科学者や社会科学者、そしてほとんどの哲学者から厳しい批判的を受けたのである。
 まず第一の批判は、人間社会生物学者が好むと好まないとに関わらず、人間の行動の生物学的規定が、人間の価値に結びついてしまう点にあった。たとえば、遺伝的な差に対して自然選択が働くという主張は、黒人、ユダヤ人、下層階級の人々、そして女性といったグループの人には遺伝的な差が存在するという意味につながり、あらかじめその人の役割は遺伝子によって決定されているものとみなす「遺伝決定論」と結びつきやすく、人種差別や女性差別に悪用される危険性が高いというのである。
 二番目の批判は、人間社会生物学が科学たりうるかどうかに問題があるとするものである。これは、人間の行動をすべて適応的で自然選択が働いて進化したもの、という視点だけで立てた仮説は「お話」にしかならないという批判で、つまり、人間社会生物学は「疑似科学」であるというわけだ。
 二番目の批判について考えてみよう。前の章でも述べたように、行動が常に適応的であると考えるのは適切ではない。しかし、自然選択説によらないものも含めて、対立仮説として検討することは可能である。もし厳密に仮説を検証することができないからといって、人間社会行動学を科学でないとするなら、程度の差はあっても、他のほとんどの自然科学も同様に、厳密には科学でないということになってしまう。私は、人間社会生物学は具体的な方法論としては問題点が多いが、科学として人間の生物学的な側面を、ある程度明らかにできる有効な方法であると考える。

遺伝決定論と「平等」
 では、一番目の「遺伝決定論」という批判はどうであろうか。人間社会生物学者はそれに答えて、自分たちは、人間の行動の差すべてが環境や文化のみで決まっているのではなく、遺伝的な差も関与していると言っているにすぎないという。さらに、その遺伝的な差は、優れているか劣っているかを示すものではないという。
 私は、人間社会生物学は「遺伝決定論」の立場をとるものではないと考える。しかし、進化理論を利用する側は本来の理論を都合よく解釈して悪用する、というのがこれまでの風潮であった。その意味では、人間社会生物学が本来どういうものであるかは別として、悪用されやすい、という点は注意しておかなければならない。このことは社会生物学にかぎらず、どんな分野の科学理論においてもあてはまることである。特に社会生物学などに従事している研究者は社会の動きに敏感に対応して発言していく必要があるだろう。
 ところで、「遺伝決定論」的な主張は特に、「社会は科学の法則によって進歩し、人間の本性は環境によって自由に改変でき、完全な社会をつくりあげられる」というマルキシズムのスローガンを信奉する研究者や、「人間個人個人の間には、生物学的な違いがない」ことを根拠に「平等」を主張する人々によって攻撃されることが多い。しかし、このスローガンや根拠は、実際に人間や生物の性質の間に遺伝的な差があるという、生物学的な事実をも否定しなければならなくなる。
 その最も典型的な例が、ソビエト連邦でのルイセンコ事件である。ルイセンコは農学者あるいは遺伝学者としてソ連における権威的な立場にあって、獲得形質が遺伝するという立場を強く推進していた。そしてスターリンにとりいり、獲得形質の遺伝を否定するメンデル遺伝学などの学者を「ブルジョア的」といって追放したのである。前章の総合説の節でも触れたチェトヴェリコフなどのソ連の優れた遺伝学者は、ルイセンコによって追放され、そのためソ連における遺伝学はかなりの遅れをとったといわれる。
 日本においても、一九五○〜一九六○年代には、ソ連での生物学の影響を受けた研究者が多く、左翼的な思想の影響で、獲得形質の遺伝を強調したり、ネオ・ダーウィニズムを否定する場合もあったようだ。
 今後、DNAや遺伝子レベルでの研究が発展するにつれて、人間の性質の個人間の遺伝的な差が明らかになってくるであろう。その時には、生物学的現象と社会的価値や倫理、思想とを切り離し、自然主義的誤謬を犯さないことが、ますます重要になってくる。
 「平等」とは、人間一人一人のもつ価値が同じであるということである。個人個人は生物的にはいろいろな面で違っている(遺伝子によって決定されているわけではない)ことを認識したうえで、その違いが人間としての価値の差にはつながらないことを理解することが、重要ではないだろうか。

Previous Page - Page 27 - Next Page [ 目次]